瞑想が進むと直観力があがる?!

昨日、撤去された自転車を取りに行きました。

銀行の梯子の必要があり、10分ほどの油断の隙に「やられました」

 

電車に乗り、帰りは自転車で帰宅するつもりで、三条商店街の中にあるプレマさんに玄米甘酒を購入しようと立ち寄る。

そこで、集中豪雨!!!雨の連打!

うきゃー

バケツをひっくり返したような雨!!

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雨宿りしながらジェラートを。

言い訳〜笑

余計なものが入ってないから、ジューシーで、変な後味の悪さがないのよね。

マンゴーもカシスもどちらも美味。

直感的にふと立ち寄ったところ、土砂降りから免れて、雨を凌ぐことができました。

 

私はどちらかというと直感的な人間なのに、頭でっかちになりがち。そう、余計な思考で埋め尽くされてしまうのです。

でも、坐禅(瞑想修行)をはじめてからは、少しずつ、余計な思考がとれ、そんな偶然が増えてきました。

 

気に留まる。気がする。気になる。

何気に起こした行動が的を得るというかなんというか。そこに助けられる。タイミングが合う。

杞憂に終わることも多々あって、考え続けても仕方ないことは考えない。それでも考えてしまうとき、思考でいっぱいいっぱいになる時は望遠レンズから眺めるように、意識を少しひいてみる。

 

瞑想は、呼吸をガイドにするとわかりやすい。

「鼻息が荒い」って言い方があるけど、興奮状態の呼吸が荒い時ってまさに息が上がってる状態。

興奮状態が収まって沈下(鎮火?)してくると、呼吸が精妙になり心が鎮まってくる。上に上がっていてソワソワした意識が下に下がり、落ち着きを取り戻す。静かで穏やかになる。

もっとディープになると、繊細で細やかで軽微になってくる。微細さはサットヴァさでもある。神聖で清らかで穏やかで和やかでシャンティで、愛に満ちている。

そこに留まれる感性を保ち続けるのに、今、坐禅(瞑想修行)を必要とし、日々研鑽しています。

 

坐禅はヨガでいう瞑想、ディヤーナが語源になっていて、実際のところ、坐禅と瞑想は区別されてるらしい。

私の今の段階は、師の言葉から何となく、瞑想の領域から坐禅の領域へと移行していく狭間にいると捉えている。

 

日常がどう変化していくのか観察していきたい。

「汝、坐禅を学ぶと為すや、坐仏を学ぶと為すや。」wikiより